三角猫の生態

楽しく貧乏に暮らすための工夫とか節約術とかを書いています。

楽しい貧乏な哲学:幸福の奪い合いをやめるんだ

資本主義は終わると言われていて、世界各地で何度も経済危機が起きて貧富の格差が拡大しているけれど、幸福の尺度が定まっていないことが資本主義社会で問題が起きる原因ではないかと思う。

●何のために競争するのか

資本主義社会では国内外の同業他社と競争することが良いこととしてとらえられているけれど、そもそも何のために競争するのか、競争が幸福につながるのかという競争の是非を考えるべきである。
すべての競争がよい競争でもなく、すべての競争が悪い競争でもない。競争の良し悪しは目的による。例えば学校で全員がスポーツマンを目指しているわけでもないので運動を強要して優劣をつけるのもおかしいけれど、スポーツに優劣があるのは当然なので順位を競わないのもおかしい。つまりこれは競争の目的が違う人同士が無理やりごっちゃにされるから競争してもしなくても批判が起きるわけで、スポーツのガチ勢は上位を競って、他の人は自己ベストを目安にして体力づくりができればよい話である。
ビジネスでの競争でも目的が間違っている競争がある。客や下請けや従業員の幸福の搾取をする類の競争をすると、ブラック企業化して社会が荒廃する。バブル崩壊後の競争はこの類の競争で、企業は他人を幸福にするために仕事するのでなく、自社が利益を出すために他人から幸福を搾取するようになった。
幸福の奪い合いをさせる類の競争もある。一部のスマホゲームでも他のゲームと面白さを競うのでなく、客同士を競わせるためにガチャで強いキャラや強化アイテムを売って儲けるやり方をしていて、子供が親のクレジットカードを使って大金を使って社会問題になった。正月の福袋とかで個数限定のセールをやって客に行列を作らせて商品の奪い合いをさせて話題づくりする店もあるけれど、常連客への還元というより転売ヤーの金儲けに使われたりする。こういう得した客と損した客の優劣がついて幸福を奪い合わせるようなビジネスをやっても、それは生活の充実や社会の発展にはつながらない。
そもそも働いている個々の労働者が成長して所得が増えることがなければ需要が増えないので、企業が長期的に成長することはない。そこを見ないふりをして人件費をコストとして抑制して、低賃金労働者を使いつぶしていくら最高利益を出して内部留保が増えてもGDPはあまり増えていない。そこで物やサービスを適正価格で売るのでなく、低賃金労働者から金を搾り取るビジネスが生まれて、いたるところで幸福の奪い合いが起きている。経営者も労働者ももはや幸福の奪い合いに慣れきってしまっているのが日本経済が停滞してイノベーションが起きない原因じゃないかと私は思う。
私は他人の幸福を奪って自分が幸福になる類の競争に参加するつもりはない。そんな浅ましいことをして金を稼いで幸福になるより、儲からなくても社会の役に立つ仕事をして貧乏なままのほうがましである。

●金持ちになっても幸福度はたいして増えない

そもそも何のために金を稼ぐ必要があるのか。たいていの人は生活のためや、自己実現の活動資金を貯めるために金を稼ぐわけで、年収800万円以上になってもたいして幸福度が増えないという調査結果もある。じゃあ個人がそれ以上の金を稼ぐ必要はあるのだろうか。
カルロス・ゴーンは2017年に日産とルノー三菱自動車から合計19億円の報酬をもらって、もらいすぎだと批判されていたようだけれど、それでもまだ足りなかったようで日産の2011年3月期~15年3月期までの5年度分の有価証券報告書に実際は計約99億9800万円だった報酬を計約49億8700万円と50億円も過少に記載したのが告発されて逮捕された。ゴーンは年収が19億円あって資産が何十億円あってもまだ満足できないのなら、いったい何百億円あれば彼は幸せになれたのだろうか。
インフラが整備された先進国は庶民でもある程度幸福な生活ができるし、廉価品と高級品の性能差はたいしてないので、大金持ちになって高いものを買わないと幸せになれないわけでもない。回転ずしと高い寿司屋の価格差は10倍くらいで、安いSIMフリースマホと新しいiPhoneの価格差は10倍くらいで、軽自動車と高級車の価格差は10倍くらいで、中古マンションと新築高層マンションの価格差は10倍くらいで、日本の国立大学とアメリカの名門大学の学費の差は10倍くらいである。じゃあ年収が10倍になって物やサービスに10倍金を払ったら10倍幸せになるかというとそうでもなくて、高い寿司屋で食べてもちょっとおいしい程度で栄養はたいして変わらないし、高いスマホはちょっとサクサク動いて写真がきれいになる程度で使うアプリは結局同じだし、車は安全性や乗り心地がちょっと向上するものの10倍速く走れるわけでもないし、高い所に住んでも景色がちょっと変わる程度で寝るのに必要なベッドのサイズは変わらないし、ハーバードを卒業したところで育ちのいい知り合いがちょっと増える程度で東大より10倍知識が身につくわけでもない。その程度のほんのちょっとの幸福を得るために、家族と話す時間さえないほどの長時間労働したり、健康を害するほど仕事でストレスをためたりするのは、本当に金と幸福のつり合いがとれているのか疑問である。
貧乏人が物欲にとらわれると、それがきっかけでバリバリ働いて成功する場合もあるけれど、物欲のコントロールに失敗した場合は買い物依存症になって借金まみれになったり、欲しいものが手に入らなくて苦しむくらいなら死ぬというアノミー的自殺につながったりする。何のために金を稼ぐのかという目的を定めなければ、金を稼ぐこと自体が目的になってしまい、そうなるともはや目的のない人生を生きて、死ぬまで満たされない呪いをかけられているようなものである。

●貧乏人が幸福になるにはエピキュリアンを目指すとよい

エピクロスという哲学者が快楽主義の創始者で、快楽主義者のことをエピキュリアンともいう。エピクロスは持病で苦しみながら哲学教室で弟子に哲学を教えて質素に暮らした人である。エピクロスの快楽主義がどいうものなのか簡単に言うと、欲に惑わされずに健康で穏やかに生きて不幸や不快を最小化しようという考え方である。快楽主義というと快楽を追及して酒池肉林に溺れているウェーイ系のように誤解されるけれど、そういう快楽を最大化させようとする考え方は功利主義と呼ばれていて、エピクロスの快楽主義はその逆で足るを知って穏やかに生きる生き方である。
資本主義社会では年収が多いと偉いと勘違いしている人が多いけれど、そもそも人間は生涯所得コンテストで競っているわけではないし、死ぬまでにやりたいことをやって自分の人生の目的を達成することができれば年収や資産がいくらだろうと関係ない。女性は些細な年収や学歴の違いでマウンティングしたがるようだけれど、自分がどれほど幸福なのかを他人と比較したがり、あれがほしいこれがほしい金が足りないと文句を言う人は人生の目的や幸福を理解していないのではなかろうか。ロックフェラー一族だろうが不老不死にはなれなくて100年程度で人は死ぬし、どんなに財産を貯め込もうがいずれは他の誰かの物になるので、金を稼ぐことに人生をかけてまで執着する価値はない。金がないのも不幸だけれど、金を得るためにストレスが大きくなりすぎたり自由がなくなったりしても幸福でなくなるので、快楽と不快の均衡点を見つけてその程度で満足して心の平静を得ればよいではないか。幸福の奪い合いのサイクルから抜け出して、他人との財産や幸福の比較を辞めれば、他人がいくら儲けただの何のブランドを持っているだのということに煩わされなくなって、自分の人生の目的のために専念できるようになる。それが衣食足りて礼節を知る誇り高い貧乏人の生き方である。
ところで私はしまむらの創業祭でセールになっていた500円のパーカーを買ったのだけれど、高いブランド服なんかなくてもしまむらの服で十分幸せである。しまむらこそが日本の未来を担う真のファッションセンターである。というわけで、貧乏人は外国人実習生から搾取するブランド服を買うよりも、ちゃんと従業員の幸福を考えて経営しているしまむらで買い物して、幸福を分け合うサイクルに参加するとよいですよ。